言葉の手垢をキュキュット

先日読んだ記事。
 

 

新しい価値観を持った新しい言葉が、メディアに取り上げられた途端に全く逆の意味を持たされてしまう、という話。これメディア側はわざとやってるのかちょっと調べりゃわかることも調べる手間すら惜しんでるのか知らないけど、どっちにしろ言葉そのものに対しても言葉を考えた人に対しても敬意がないよね。
 
で、これ読んで思い出したのが意味が逆転こそしてはいないものの、手垢がつきまくってしまって意味合いが軽くなってしまった言葉たち。
 
癒し
 
自分探し
 
 
これな。
 
自分が「癒し」という言葉が流行る少し前、物語のテーマ的に使われたのを初めて見たのは確か90年代の前半、鴻上尚史の戯曲を読んだ時だったと記憶してます。
その時も、またそこらへんから文学・サブカル界隈にじわじわ浸透していった時も、「癒し」という言葉にはそれを必要とする者の切実さがあったわけですよ。キリスト教的な「救済」に近い、けれど信仰のない状態で生きる現代人が切実に求めるものとしての「癒し」。
ところがそれがメディアで大々的に「今流行!テーマは癒し!」的に取り上げられていくと、あっという間に「癒し」はお手軽リラクゼーションツールに成り下がっていったんですよ。リアルタイムで体験してたけどほんっと、ものすんげぇスピードで手垢にまみれていったのをよーく覚えてる。風呂に入っても癒し、マッサージしても癒し、動物を見ても癒し。ちょっと前まで「リラックス」「のんびり」「和む」などと表現されていたものが軒並み「癒し」に置き換えられていったからな。
あと「自分探し」も同様。これ最初に目にしたのがいつどこでだったのかちょっと覚えてないんだけど、まあ流行る前にこのサブカルクソババアが知ってたってことはやはりそのへんの界隈から広まっていったんじゃろうなぁ。
これもやっぱり出始めの頃はもっと切実なニュアンスがあって、八方塞がりの中で迷える若者のもがき、みたいな感じだった。今じゃすっかりぶらり旅の目的みたいになってるけどな。元々は目的じゃなくて、行動や思索が結果的に「自分を探す」ことになっている、という話だったんですよ。
 
で、最後に「絆」。これな。
まあさんざん氾濫してます。しまくってます。なのでこれに関しては皮肉な言説を目にすることも多い。主に被災地ではないところの人たちが被災地の現状に憤って言う「絆絆言ったってまだ復興は全然じゃん!何が絆だよ!」的な言説ね。
でもなー、これに関しては実を言うと、ワシ個人としてはそういった皮肉な言説は苦手なんっすわ。いや気持ちはわかる、わかるんだけどね、あの震災後のどーしよーもない時に色々と感じた大勢の人の力のありがたみ、それを一言で表現した「絆」という言葉の力、それすらも否定されたような気分になっちゃってな。
確かに「絆」という言葉には物凄く分厚い手垢がついちゃった。「癒し」や「自分探し」と同様、「自分の切実な気持ちを一言で表せる言葉はこれだ!」というキャッチーさが仇となって大手メディアにキャッチキャッチされまくった結果がこれだよ。でもやっぱり、その手垢のつく以前にその言葉で救われたという事実だけは忘れないでいたいんだな。
手垢の厚みで綱引きの縄みたいにぶっとくなって、なんかキンキラキンの装飾とかつけまくられてる「絆」を見ると「何が絆だ」とか言いたくなるのはわかるしまあワシも実際うへぇってなるけど、でもそんなぶっとくて装飾過多なものだけが「絆」じゃないのよーってトーホグの端っこでひっそりと言ってみたい所存。あの時心配してくれた友達も、見知らぬ人々も、たまたま一緒になった人たちも、避難途中で寄った新潟のサイゼリヤ店員の「ありがとうございました、どうぞお気をつけて!」の一言も、それは本当にひとつひとつが細い糸みたいなもんだけどすべてがありがたくて泣けてきた、その気持ちを「絆」という言葉に込めたいんだよ。なのでたまにはこうやって、言葉の手垢をキュキュット落としてみるわけさ。
 
 
ところで最近意味合いが変わった言葉として「壁ドン」があるのをご存知か。あれ本来は壁の薄いアパートで隣人がうるさくしてる時に壁を叩くことだったからね、主にセッk(強制終了)