踏みとどまった少年 〜惑星のさみだれ茜太陽から色々考えたこと〜

注・このエントリには漫画「惑星のさみだれ」のネタバレが含まれています。というかネタバレ前提の話です。




例のあの人(仮称・サカキバラ某)が本を出したこのタイミングで、「惑星のさみだれ」の茜太陽のことをつらつら考えていたのだった。

茜太陽は絶望した少年である。彼が裏で敵と繋がっているという描写を見たときは、安易に「ああ、暗黒微笑系の最強ショタのいわゆる闇堕ちね」と思ってしまったのだが、その予想は大外れであった。というかもともと惑星のさみだれという漫画自体、表紙及び序盤の展開から受けた「やれやれ系主人公が痛い系不思議ちゃんヒロインに振り回されるコメディかな?」という印象から捻りを加えてド直球の剛速球をぶち込んでくるような話なので(「捻りを加えてド直球」って日本語としてアレだがそうとしか言えんのよ)、太陽を安易な「心の闇」に飲み込まれる少年として描かなかったのもむしろ当然だったのだが。
結論から言うと、茜太陽は踏みとどまった。あちら側に行かなかった。家庭の中に居場所がないという孤独、すべて終わらせたいという絶望、そこにつけ込んだ誘惑、それらをはねのけてなお、踏みとどまった。それは「獣の騎士団」という居場所があったからだ。

太陽の「すべて終わらせたい」という思いは、家庭や学校で疎外感や孤独感を抱えた思春期の少年少女なら思ったことがあるだろう。学校に爆弾落としてーな、家が燃えればいいのにな、アイツの乗ったバスが事故らねーかな。みんなしね。ただし俺以外。そんな絶望の姿をした、ある種の「最後の希望」だ。そして、そんな気持を抱いている最中は、こんな風に考えているのは自分だけなんだと思っている。特別な自分の特別な絶望だと思っている。そしてそこで踏みとどまって歳をとった者は当時を思い返して布団の中でジタバタし、踏みとどまらずあちら側に行ってしまった者のそれは特別な「心の闇」と呼ばれるのだろう。もともと抱えていたものに大差がなくても。

思春期の自分のことを思い返してみると、自分の居場所はフィクションに没頭する自分自身の中だった。それと、同じような趣味を持った人々(ほとんどが年長者)との、会報を介した交流だった。それは「真っ当な」人々からは「現実逃避」と呼ばれる類の行為だ。現実逃避、嫌な言葉っすね。お前は現実逃避をしている、そう言われたら否応なく罪悪感を持っちゃうね。でも別に悪いことなんてなーんにもしてないし、むしろそれがないと死ぬか殺すか病気になるしか道がないなら堂々と逃げればいいのだよ!と中年になった俺はかつての自分に向けて仁王立ちで宣言する。そしてあのとき逃げ場があってよかったー!おかげで歳くってから人生クッソ楽しいぜー!と高笑いする。

つーか「現実」から「逃避」する、という何やら大上段に構えた言い方が罪悪感を抱かせるんだから、むしろ「日常退避」ぐらいの気分でいいんじゃねーかな。どうせ奴らがいう「現実」は「日常生活」ぐらいの意味だし、「逃避」じゃなくて一時的に危機から「退避」するのだ、という意識ですよ。退避しながら徐々に慣らして行きゃいいじゃねーかと思うのですよ。

ここで茜太陽の話に戻るが、彼が居場所を見出した「獣の騎士団」も、そういった意味では「日常」からの「退避」場所だろう。学校と塾と家、それが日常の世界のすべてで、それらに絶望しか感じない少年が、その「世界」を終わらせる、という「あちら側」の誘惑について行かなかったのは、その日常世界から外れた退避場所が「あちら側」の誘惑よりもずっとずっと大切で魅力的だったからに他ならない。
結局のところ、あちらに転ぶかこちらに踏みとどまるか、それは「あちら側」よりも魅力的な退避場所があるかないか、なのかもしれない。そうでなくても「特別な自分の特別な絶望」を感じていれば、より暗い穴に引き寄せられてしまいがちなのだから。自分から踏み外さなくても、アニムスのように面白がって「あちら側」に突き落とそうとする者だって存在するのだから。その誘惑よりも、もっともっと魅力的な退避場所をどうにかして自分で見つけるか、さりげなく導かれるか、突然運命的に出会ってしまうか。
だから自分は、あっちに行っちゃった人のことより、こっちに踏みとどまって何だかんだで自分の場所を見つけて歳を重ねてる人たちのことがもっともっと知りたいし、多分今現在境界線上にいる子供たちやその周囲の人たち、あと境界線上のまま歳をとった人たちにもそーゆー前例の話は必要なんじゃないかな、と思うのだった。そしてふと「初カキコ…ども…」の少年は今何をしてるかな、思い出してジタバタしてるかな、と思ったりもするのだった。